そしてその後、破界僧となった彼は、大きな瓢箪を手に村々を歩き、民衆の中にとけこみ、歌を歌い、踊りを踊りながら仏を説きました。
小性居士, 卜性居士と呼ばれた彼の姿は奇人と呼ばれましたが、仏教の教理を歌の文句にした「無碍歌」は国中で歌われ、「南無阿弥陀仏」の念仏が人々の口から自然に出てくるようになりました。
元暁は仏教の大衆化に勤めた高僧でした。
元暁は617年に慶尚北道(チョンラブクド)押梁(アプリャン)面で生まれ、幼い時の名前は 薛誓幢(ソルソダン)でした。
幼い頃から武芸と学問に秀でた彼は花郎(ファラン、新羅時代の貴族の子弟の組織)になることを夢見ていました。
しかし戦場で多くの人々が命を落とす様子を見て人生に対する懐疑を抱き、31歳で出家し、僧侶となります。
法名は最初の暁を表す元暁でした。
34歳になった650年には義湘(ウィサン)とともに唐への留学を試みます。
しかし途中の高句麗でスパイに間違えられ、1ヶ月間の牢獄生活のあげくに新羅に戻ってきます。
そして10年後の660年、45歳という年齢で再び唐へ行こうとします。
今回も義湘とともに慶州を出発した元暁は、唐に向う道筋で戦争や飢餓に苦しむ貧しい民衆を目にします。
そして現在の京畿道(キョンギド)華城(ファソン)近くを通り過ぎる頃、一夜を過ごすために洞窟に入っていきました。
夜中に目を覚ました元暁は喉が渇き、手元近くにあった水を飲んで眠りますが、翌朝、それが骸骨にたまった水であることを知り、
「すべては己の心の中にあるのみ、事物自体にはきれいも、汚いもない」という「一切唯心造」の大きな悟りを得て、留学を断念します。
その後はまた庶民の中に入り、仏教の大衆化に尽くします。
当時の仏教の経典は漢字で書いてあり、それを読み解く僧侶の話も民衆には難解でした。
そのため彼は、貴族の宗教にとどまっていた仏教を庶民にも分かる方法で分かりやすく説いたのでした。
しかし一方では、 「和諍思想(どちらか一方に傾くことなく、一つの心になりながらもその差は認める真の統一原理)」を追求し、唐から入ってきた「金剛三味経」を王や高僧の前で論じるなど、貴族の中にも仏教を広めました。
その後、晩年には仏教経典の解説書を数多く残し、686年に穴寺で70歳の生涯を終えます。
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